ここのところ受注状況が思わしくありません。恥を忍んで書くのですが、しょっちゅう見積書で負けてしまいます。価格で勝てていないのですね。
その理由のひとつが円高です。円が高止まりしてしまっています。これが困るのです。

かつて、日本の翻訳業界は、ほぼ国内で閉じていました。そういうときに円相場は、影響があっても、間接的です。ところがインターネットの時代になって、外国のエージェントが参入し、国内エージェントも海外在住の翻訳者を抱えるようになりました。こうなると、円相場は仕入れ価格に影響します。価格競争に直接響いてくるわけです。

こういう状況下で円高は、私たちの事務所にとっては本来逆風ではないはずなのですね。というのは、私たちは、ターゲット言語にネイティブの翻訳者の起用を原則としています。日本語から英語への翻訳の場合、アメリカ在住の、アメリカ人翻訳者を使います。ですから、円高は、仕入れ価格を下げることになって、価格競争上は有利に働くはずです。

実際、円高傾向になって以来、何度か「円高差益還元割引」を実施しました。こうすることで受注できた見積もあります。けれど、これにも限界があります。そうそう仕入れ価格を下げ続けられないのです。

というのは、むやみに翻訳者の単価をレートに連動させられないからです。これは事務上の都合で、私たちが翻訳者への支払いを円建てで計算していることと関係しています。レートが変わったからといって円建ての単価をそう簡単には変えられません。

なぜなら、以前、円が安かったとき、「円建てだから」と、翻訳者の単価を通貨相場に連動させなかった経緯があるからです。翻訳者にすれば連動しないことで手取りが数割も減少する辛い時期でした。けれど、それでもその単価で支えてくれたから、どうにか仕事を受注し続けることができました。もしも「仕入れ値が上がったから」と、それを見積価格に反映させていたら、競争には勝てなかったでしょう。

そういう歴史を踏まえれば、「円高だから」と、翻訳者の単価を簡単に切り下げてはならないことは明らかです。そして、それは私たちの事務所の特殊事情です。多くのエージェントは、円高を利用して競争力のある価格で勝負してきます。結果、負けてしまいます。

ここは辛抱だと思っています。終わりのない円高も、いつかは終わるでしょう。そして相場が逆転すれば、そのときは、翻訳者たちが助けてくれるはずです。もうすこし、頑張ってみましょう。
 
 
数年のうちにはこのエントリ自体がものすごく古臭くて実情を反映しなくなるかもしれないということを前提に書くのですが、Google翻訳は、少なくとも日本語と英語の間については、おおまかな内容を推測する以上の役にはたちません。たぶん数年のうちに大幅に改善するとは思いますが、現状では、Google翻訳を使って英文のページを日本語に変換して読もうと思っても、頭が痛くなるだけです。逆も同じで、翻訳業務の実用上はあんまり意味がないのがGoogle翻訳をはじめとする多くの自動翻訳ソフト・サービスです。

けれど、それではこのサービスに全く意味がないのかというと、そうではありません。まず、ヨーロッパ語間の翻訳精度は日本語と英語の間に比べればはるかに高く、たとえばフランス語のページやドイツ語のページを英語に翻訳すると、ところどころ意味のとりづらいところや意味不明なところがある程度で、だいたい理解できてしまいます。微妙な表現や表現の美しさとかを問題にするのでなければ、ほぼこれでOKなんじゃないかと思うほどです(残念ながらそれを正確に評価できるほどにはフランス語やドイツ語のことは知りませんので推測です)。ですから、これは英語以外のヨーロッパ語で書かれた資料を読み解く際に非常に助かります。

それから、日本語と英語の間でも、短い文や構造がはっきりした文なら、ある程度はだいじょうぶな翻訳をする力はもっています。ですから、「翻訳」ではなく、英文を書かねばならない場合には、原文の日本語を気をつけて書くことによって、Google翻訳を補助的に使うことができます。

そして、最近気がついたのですが、非ネイティブが英文を書こうとするときに、Google翻訳を使って文法チェックをする方法があります。これは、面倒ですが、うまく使えばかなりいい結果を出せますので、特に「英語は読めるけれど、書くのはちょっと苦手で」という方にお勧めです。

まず、自力で英文を書きます。これを、Google翻訳を使って、いったんドイツ語、フランス語、スペイン語などのヨーロッパ言語に翻訳します。そして、翻訳結果をコピーし、これをもう一度Google翻訳で逆向きに英語に翻訳します。原文が正確に書けていれば、かなりの確率で、自分が書いたとおりの英文がフィードバックされるでしょう。もしも自分が書いたものと異なった結果がフィードバックされた場合には、それを参考に、自分がどこを間違えたのかを知ることができます。
特に、日本人は、冠詞、前置詞、単数・複数形、時制など、日本語になかったり重視されなかったりする文法事項で、不自然な英語を書いてしまう傾向があります。もしもGoogle翻訳が意味を大きく取り違えることがなければ、これらのマイナーな文法のエラーは、自動翻訳を通すことで修正されます。

もちろん、Google翻訳が大きく意味を取り違えて見当違いな方向に修正を加えてくることもあります。だから、この方法は、英文を正しく読むだけの力のある方にしかお薦めできません。それでも、「読めるけれど書くのはちょっと」というケースはけっこうあるものです。そしてそういう場合には、英語とその他のヨーロッパ言語の間の自動翻訳を利用することで、より正確な英文を作成できるかもしれないのです。

いちど、お試しください。
 
 
翻訳に完全はありません。常に、「これでいいのか、これではダメなのか」と悩みながら、その文書、その文書が用いられる目的に合わせた最適な訳を探します。特に悩むのが「どこまで訳すのか」という問題ですね。これはいろんな場合で発生しますが、わかりやすいのは名詞でしょう。

たとえば、政治制度上の機関や地位の名前です。現代的なものには、たいてい定訳があります。たとえば経済産業省であればMinistry of Economy, Trade and Industry(METI)が公式な翻訳です。こういう場面で迷うことはありません。首相はPrime Minister、衆議院はHouse of Representativesです。

ところが、これがちょっと古くなると、迷いが出始めます。明治政府の太政官は、実質的に大臣なのでMinisterとすべきでしょうか。あるいは職制上の位置づけからCouncil of Stateと訳すべきでしょうか。いや、こういう歴史的なポストはローマ字書きでDajokanと表記するのが好ましいのでしょうか。

さらにさかのぼって江戸時代になると、征夷大将軍はGeneralと訳すのではなく、定訳のShogunを使います。けれどTycoonというもうひとつの定訳もあります。同じ征夷大将軍でも実質的に軍事指揮官である平安時代の征夷大将軍なら、Generalの方が適切かもしれません。もちろん、その文書が物語であるのか、論文であるのかによっても訳し方は異なってきます。

先日も、どこまで訳すのか、ひどく悩まされる文書がありました。日本固有の名称は、訳さずにローマ字書きにするのが正確ですし、翻訳者も楽です。けれど、読者にとっては何のことだかわかりません。説明が不要な程度に訳しこみながら、それが日本の歴史用語であることを読者に意識させる必要があって、ほんと、難しいものだと思いますね。
 
 
さまざまな翻訳案件の中には、明らかに翻訳が不要なものが入ってくることがあります。そんな時どう対応すべきか、困ることがあります。

迷うまでもないケースもあります。例えば以前、ある個人のお客様から、「海外からこういうメールが来た。重要なもののようなので翻訳してほしい」と、依頼がありました。最初の一文を読んだだけで、これがスパム、詐欺メールの類であることは明らかです。そこで、その旨をクライアントに伝え、この案件は取り下げられました。

こんなふうに、翻訳すべきでない文書を依頼されたとき、それをこちらで判定するのは、「馬鹿正直」なのかもしれません。そのまま依頼を受けていれば、請求書が書けたわけです。けれど、道義的に詐欺の片棒を担ぐようなことはできませんよね。こういうケースは、比較的単純です。

問題になるのは、ビジネス系の文書で、「どう考えてもこれはクライアントにとって無意味な情報だよなあ」というのがひしひしと伝わってくるような場合ですね。翻訳者は、翻訳をするのが仕事です。そういったビジネス上の判断は、余計なお世話です。

けれど、その翻訳は、ビジネスを助けるために依頼されているわけです。それが明らかに不要であるときに、そこで商売をするというのは、どう考えてもフェアじゃありませんよね。

互いに信頼関係が出来ているようなクライアントに対しては、翻訳にかかる前に文書の概略だけ説明して案件を取り下げてもらう場合もあります。けれど、そこまで信頼関係のできていない新規の顧客に対してそんなことをするわけにもいきませんしね。それに、少なくとも英文を読んで概略を伝えるという仕事はしているわけですから、それに対する評価や報酬だって本当はほしいのです。そこまでを含んだ包括契約ができればいいのですけれど、そこまで特殊なケースを含んだ包括的なパッケージはつくりにくいのも事実で。

最近、久しぶりにそういう判断に迷う案件がありました。さて、どうしたものかと…
 
 
  • この記事は、2010/04/27にポストしたものの再掲です。
以前、翻訳料金は翻訳者(や翻訳エージェント)にとっては安く、クライアントにとっては非常に高価であるという話を書きました(翻訳のお値段)。実際、気軽に利用するには、翻訳料金はどう考えても高すぎます。一方で自動翻訳がWebで無料で利用できるときに、この値段はあまりに不釣り合いです。けれど、翻訳者の側にも言い分があります。これ以上安ければ、食っていけないのです。もちろん翻訳で十分に収入を得ている方々もいらっしゃいますが、それでも濡れ手に粟のような商売でないことは確かです。訳した分しかもらえないのが、少なくとも実務翻訳の世界です。
ですから、翻訳エージェントとしては、少しでもクライアントに対する翻訳料金を高く設定したいものです。それは洋の東西を問わないようで、こんな記事を見つけました。 翻訳料金が高いのは安心料だというわけです。高品質な翻訳をしているから高いのであって、単に翻訳をしているだけでなく、社内できちんと校閲を行っているから、その分の人件費もかかっているのだよというような内容です。
それはそうかもしれません。実際、私たちの事務所も、品質第一を謳っています。価格競争に参加して品質を疎かにするようなことだけはないようにと、常日頃心がけています。けれど、やっぱりこんな自己弁護の記事には違和感を覚えます。
クライアントの立場に立ってみれば、翻訳料金が異常に高いのは自明です。私はかつて企業に勤務して翻訳を発注する立場に立ったこともありますからよくわかります。よっぽどなことがない限り外注などできないレベルにあるのが翻訳料金です。翻訳事務所は、その事実をはっきりと認識しなければなりません。高価な翻訳料金にあぐらをかいていてはいけないのです。translationではなくtranscreationだ(創造的な仕事だから)などと開き直るべきでもありません。
もちろん、できない値引きなどするべきではありませんし、安売りをして品質を失うべきでもありません。そういった現実性のない努力をするべきだというのではないのです。そうではなく、単に当事者両側の事情を、事実として認識すべきだと思うのです。 
 翻訳料金がここまで嵩まなければ、まだまだ翻訳需要は多くあります。どこかで工夫が必要です。そんな工夫を見つけ出すためにも、決してあぐらをかいていいてはいけないと思うこの頃です。
 
 
  • この記事は、2010/04/16にポストしたものの再掲です。
「翻訳」は、英語のtranslateの翻訳語です。translationは、語源的には「越えていく」ことであるらしく、つまり言語の壁を越えて意味を伝えることです。
一方、「訳」は、やまとことばの「わけ」であり、意味を説明することにあたるでしょう。だから「訳」だけでも十分にtranslateの意味になると思います(ちなみに英語の語源的にいえば、「訳」はむしろparaphraseになるのかもしれませんが、あまり深入りするのはやめておきます)。そこにあえて「翻」の語を加えたのは、先人の知恵でしょう。「翻」は「ひるがえる(す)」ということです。横に書いてあるものを翻して縦にする過程で、原語の解釈と再構成がはいってきます。その作業を、「翻」という語で表現したのかもしれません。
「翻」の字を「解釈と再構成」だと考えるなら、明治期によく行われた「翻案」の意味がはっきりします。これは、外国の文学作品の設定やあらすじを使いながらつくられた日本の作品です。「案」(アイデア)を「解釈と再構成」したものが、翻案作品なわけです。現代なら「二次創作」と呼ばれるようなこんな作品を、かつては高名な文学者がやっていたわけです。
ともかくも、翻訳には、「解釈と再構成」の作業がつきものです。この作業はクリエイティブなもので(「だからコンピュータにはマネできない」という議論が多いのですが、これに対しては私は自分なりの反論があります)、だからこそ翻訳という仕事がおもしろいわけです。
さて、一方の英語圏では、最近、transcreateなる言葉が使われはじめているようです。まだまだ一般的に使われるところまではいっていないようですが、例えばウェブサイトのローカライゼーションなどでこの言葉が使われるようです。つまり、「translationでは使えるサイトにならない。transcreationが必要だ」という具合です。単純な翻訳では、訴えかけるサイトは構築できないというのは、確かにその通りだと思います。
ただ、ここで思うのです。日本語の「翻訳」には、既に「翻」の字、つまり「解釈と再構成」が含まれています。もともと、単純な言葉の置き換え作業ではないのです。そう思うとき、「翻訳」は、translationだけでなくtranscreationの意味も包括する、より幅広い言葉なのかなと思いました。

ずいぶんむかしには、「翻訳」の言葉を嫌った「超訳」などという言葉を好んだ出版社もありました。あまり言葉を濫造するのも考えものではないかと、そんなふうにも思うこの頃です。
 
正しい翻訳 06/05/2011
 
  • この記事は、2010/04/08にポストしたものの再掲です。
間違った翻訳は、確かにあります。どう考えても原文の意味を誤って解釈している翻訳──つまり「誤訳」です。けっこう手慣れた翻訳者でもうっかり誤訳をすることはありますから、そういう意味で、最終チェックは欠かせません。

その一方、「誤訳」の反対の概念「正しい翻訳」というのは、実は存在しないのではないかと思います。学校のテストの答えのように唯一の正解があって、それ以外はペケというのは、翻訳には当てはまりません。どこまでいっても正解がないのが翻訳です。「正しい翻訳」ではなく、「適切な翻訳」があるばかりです。そして、何が適切なのかは、その翻訳文の用いられる用途によって変わります。文脈によって適切さが変わるのが、翻訳のおもしろいところであり、厄介なところです。

そして文脈とは、その翻訳が何に用いられるのかということです。目的がはっきりしなければ、適切な翻訳はできません。もちろん、原文の文章を読めば、それがどのような目的なのかはある程度想像がつきます。ですから、あまりに明らかな場合は、あえて翻訳の目的を尋ねないこともあります。けれど、基本的に、翻訳事務所はクライアントの目的を把握すべきですし、曖昧な場合は確認をとるのが普通です。そこまで踏み込まなければ、「適切な翻訳」はできません。そして、「不適切な翻訳」は、誤訳と同じようにたちがわるいものです。なぜなら、それは「使えない翻訳」で、クライアントに余分な出費と時間の無駄、ときにはチャンスの喪失をもたらすものだからです。

とはいいながら、「適切な翻訳」も、また難しいものですね。何年この商売をやっていても。
 
 
  • この記事は、2010/03/29にポストしたものの再掲です。
先日のエントリで引用した記事に対するコメントが、同じサイトで公開されていました。こちらです。意見は3つ寄せられていて、いずれも興味深いものですが、特に最初のものは「機会に人間が追い越せないなんて甘い」という点で私と一致しています。私は自分自身の翻訳者としての作業を観察することで「こういった一連の作業を自動化することは絶対に不可能ではない」と確信するようになりました。一方、このコメントの著者は、翻訳者であると同時にチェスプレーヤーでもあるそうです。ひとりのチェスプレーヤーとして機会と対戦してきた経験から、「機会が現在人間にかなわないからといって、将来もそうだという保証はまったくない」と結論づけているようです。確かに慧眼です。
そして、この点で、私の意見も彼の意見も、ひとつの同じところに行き着くと思います。コンピュータにインストールされたチェスに人間が勝てないからといって、チェスの楽しみが失われるわけではありません。機械の方が優れた翻訳をするようになったとしても、人間が翻訳をする意味が失われるわけではありません。人間の翻訳は、機械の翻訳と共存していくことでしょう。
ただ、業務としての翻訳は、間違いなく激減します。このあたりのことを読み違えて、「どこまでいっても人間の翻訳が...」などと楽観してはならないと、そのように思うわけです。
 
 
  • この記事は、2010/03/23にポストしたものの再掲です。
ついこのあいだ、最近愛用のブラウザGoogle Chromeを立ち上げてびっくりしました。「これは英語のページです。翻訳しますか?」というメッセージが表示されたのです。私は、商売柄外国のサイトをよく訪問します。実際、英語圏の情報をより正確に知るために、ブラウザの設定もデフォルトを英語にしているほどです。そんな関係で訪れた英語サイトのページを表示したときに、そういうメッセージが表示されたわけです。
おそらく、Google Chromeの最近のアップデートで、翻訳がデフォルトになったのでしょう。Googleの翻訳機能は以前からありました。だから驚くことではないのですが、以前よりも積極的に翻訳機能の提供をしようというのは、Googleもかなり自信をつけてきたのでしょう。
私としては、どれほどGoogleの翻訳機能が優れていても、原語で読まなければ商売上の役には立たないので、この機能をすぐにオフにしました。ただ、どの程度実用的になったのかはちょっと気になったので、あとで改めて別のマシンで試しに使ってみました。結論からいえばまだまだ実用レベルとは程遠く、ちょっと安心させられるレベルでした。少なくとも英和翻訳に関しては、まだまだ私の翻訳者商売を脅かすほどのものではありません。
ただ、こんなふうにしょっちゅうGoogleの翻訳機能の進化を私が気にしているのは、理由のないことではありません。いつか、それもそう遠くない未来に、必ず自動翻訳は人間の精度を追い越すだろうと確信しているからです。たとえまだまだ意味不明の文章を返すだけの能力しかなくとも、 これは必ず進化します。進化のスピードは遅くとも絶対に後戻りはしませんから、いつかは追いつき、そして追い越すだろうと思うのです。
 たとえば、英語圏のこんな記事(ニューヨークタイムスのオピニオン欄の寄稿者である翻訳者が書いているようです)には、Googleがどんな発想で翻訳エンジンに取り組んでいるのかがわかりやすく説明してあります。この説明は、かねがね私が自動翻訳はどうあるべきかと主張してきていることとほぼ同じような内容です。つまり、Googleは正しい方向を歩んでいるのです。実際、似たような発想(つまり、言葉を単語を文法でつないだものとかんがえる演繹的な方向ではなく、既にある大量の言葉をデータベースとして参照しようという帰納的な方向)は、この業界では常識になっているようで、たとえばこんな会社の自動翻訳ソフトなども、そういった思想で組まれているように見受けられます。
けれど、前述のニューヨークタイムスの記事は、結論としては「やっぱり機械は人間にはかなわないよ」という楽観論で括られています。甘い、と私は思います。 翻訳がクリエイティブな商売であることは否定しません。けれど、コンピュータのソフトウェアだって、クリエイティブな人間のクリエイティブな作品です。クリエイティビティの正しい手順さえ組み込む才能があれば、ひとつひとつの文章の置き換え作業にまで創造性を発揮する必要はなくなるはずです。
だから、私は翻訳商売はいつか突然に成り立たなくなると思っています。自動翻訳が実用レベルに達した日が、そのときです。そして、それは確実にやってきます。
けれど、私は悲観はしていません。というのは、翻訳が仕事として成り立たなくなっても、世の中に人間の創造性が不要になることはないと思うからです。翻訳が仕事として成り立たなくなるころには、別な商売で、翻訳で培った創造力が活かされるようになるでしょう。そこまでの展望をもって、この仕事に励みたいと思うこの頃です。
 
 
  • この記事は、2010/03/15にポストしたものの再掲です。
専門家でもないのに知ったかぶりをしてもっともらしいことを言う人は嫌なものです。「あんたがなんぼほど知ってるねん」と、思わず大阪弁でツッコミたくなります。しかし、そういうもっともらしい話し方を仕事としてする人がいるものです。たとえば俳優は、いかにももっともらしい台詞をもっともらしい顔をして喋ります。高邁なことを語る俳優に向かって、ツッコミを入れてはいけません。役の上でそう言っているからです。その台詞に説得力があるとしたら、役者の技量を褒めるべきでしょう。決して、「知りもしないことをもっともらしく言っている」と批難すべきではありません。

翻訳者も、同じようなものだなあと思います。ビジネス文書を訳すときはビジネスマンのような口をきき、契約書を翻訳するときには法律家のような書き方をします。特許では物々しい古風な文体を使い、文芸作品でははじけます。論文はアカデミックに、ニュースはドラマチックに訳すのが翻訳者の仕事です。
翻訳者はビジネスマンでも法律家でも弁理士でも作家でも学者でも新聞記者でもありません。けれど、翻訳をするときにはそういった人々になりきって文章を書くのがコツです。いかにも専門家のようにもっともらしい口調で語らなければ、正確な意味は伝わりません。なぜなら、原文がそういったもっともらしい口調で書いてあるからです。

知ったかぶりは嫌味なものです。仕事だからと割り切ってやっていても、ときに自己嫌悪にもなります。けれど、これは与えられた役なのだと、そう思って勤しむのが、役者や訳者に与えられた使命のようですね。
 
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